お地蔵さんにお参りするときの「タブー」とは



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お地蔵さんのお参り作法は、至って自由なものと解釈していいでしょう。地蔵信仰の経典にも、かくあるべき、という形式に関する規定はないようです。

一般的に無礼がないようにすれば、それでひとまずOK――まあ、そんな緩い感じでもいいのではないでしょうか。

 

とはいえ、それが多少なりとも何かの祈りを託して安置された尊いものである以上、守るべきマナーのようなものは、いわば「暗黙の了解」として次のように存在するはずです。

 

<タブーを犯さずお地蔵さんにお参りしよう>

神社仏閣に祀られたお地蔵さんにお参りするときには、もちろん、鳥居の前で一礼することは、常識的な作法です。

水屋があれば手を清めて、お地蔵さんの前に立つときにもまた一礼、去るときにも一礼。声に出して「失礼します」とでも言えば、尚良いでしょうね。

 

まあ、そういうのも多少現代には合わない、堅苦しい作法かもしれません。多少崩れたとしても、それでただちにお地蔵さんが激怒してあなたに罰を与えることもないでしょう。

 

しかし、絶対に破ってはならないのは、結界がはられた場所には立ち入らないということです。呪わしいもの、忌まわしいものを封じた中にあるお地蔵さんには、あえて近寄ることもありません。

そこですべての負を背負っているのが他ならぬお地蔵さんなのです。生身の人間が近寄ると、あるいは何かの呪いを受けることになるかもしれません――。

 

路傍でパッとお地蔵さんが目に入っても、ふらふらと軽く近寄るのではなく、その前に一度近くに結界がはられていないかどうか、ちょっと確かめてみましょう。

お札や縄のようなものなどが見受けられたら、足を止めて、お地蔵さんに一礼だけして引き返すのが作法です。

 

――地蔵信仰におけるタブーとは、こういったところでしょうか。それ以外にも、明白に不届きな真似をするのは、絶対にだめです。

最近では軽はずみに「お参りなう」みたいな感じで写真付きのツイートをアップする人も多いようですが、それも感心できません…。


その地で亡くなった方の「成仏」を祈るというお参りも


地蔵信仰が伝わったのは、平安時代のことです。そのときの庶民の暮らしは、現代の我々のような市民生活よりもずっと苦しいもので、生きる上での本質的な餓えなどもありました。

そこで彼らは、「せめてあの世では…」という思いを込めて、極楽浄土への祈りを込めて、お地蔵さんに向かい合ったようです。

 

すなわち、お地蔵さんには衆生救済のご利益(というべきか、なんというべきか…)があると信じられていたわけですね。

しかし、それだけではありません。時代の流れの中でお地蔵さんが各所に安置される意味も広いものとなり、たとえば、その場所で亡くなった人の成仏を祈って作られるという場合もあるようです。

 

<手を合わせて無辜の霊の成仏を祈る――>

私たちが普段、日々の生活の中で何気なく通りすぎているお地蔵さんは、あるいは、誰かの魂を鎮める意味で立てられたものかもしれません。

実際、事故が多発する山道の急カーブなどには、優しい顔をしたお地蔵さんの姿が多く見られたりします。

小さな村の路傍に忽然と現れるお地蔵さんは、もしかすると、かつてその近くでなくなった子どもや水子の不憫を思い、村人が作ったものでもあるでしょう――。

 

私たちは神社やお寺なんかに行くと、つい、「受験に合格しますように」とか、まあそれくらいならいいですが「大金持ちになれますように」とか「モテますように」とか、およそ神仏に願うべきではない、それ自体を先に捨て去るべきではないかというような煩悩を祈りにすり替えたりします。

実際、無心で尊い存在の前に祈りを捧げる人の数は、どれほどの少数でしょうか。

 

もしあなたがかくのごとき煩悩を持って、死者の弔いのために安置されたお地蔵さんに接していたとしたら、なんともバチ当たりです。

それでなくても、仏教というのは戸惑い苦しむ心を清めて、最終的には「無」へと至らしめようというような目的があります。

俗っぽい願い事は夜空の流れ星にでも託すとして、路傍のお地蔵さんには、あるいは鎮魂のために作られた石仏かもと考え、静かな気持ちで向かい合ってみるべきではないでしょうか。


お参りのかたちは千差万別~あなたなりの作法でお参りしよう


お地蔵様の正式名称は、「地蔵菩薩」と言います。インドから伝わった仏教の一尊で、日本では平安時代から地蔵信仰が広まり、苦しい生活の中、衆生はお地蔵様に手を合わせることで、せめて死後は、極楽浄土での暮らしを祈りました。

そのような切実なルーツを持つお地蔵さんですが、今ではそれも道祖神信仰などを習合して、いくらか形骸化し、ほとんど路傍にそのかたちだけが残っているだけ、という状態とも言えましょう。

私たちもあまり堅苦しい作法にはとらわれず、お参りした方がいいのかもしれません。

 

<自分なりのお参りで「心」を落ち着ける>

一般的に、神社や仏閣を参拝する前には、たとえば鳥居の前で一礼したり、水屋があればそこで手や口を清めたり、賽銭箱があればお賽銭を差し上げたりします。

一般的に、それがしかるべき礼式と考えられています。神社の中に恭しくお地蔵さまが安置されているときにも、その方法にならえば、まず失礼はないでしょう。

 

しかし、仏教が大事にしているのは実こそ、そのような礼式ではなく、むしろ「心」のありようです。

極端なことを言えば、きちんとした礼儀を払っても、心の中で「バカみたいだな」とか「早く帰りたいな」みたいな邪心(というか雑念)があるなら、あまりお参りには意味がないかもしれません。

 

それよりは、そのような礼式が多少崩れたとしても、お地蔵さんの前で無心に祈り、手を合わせる、という感じの方が良いでしょう。

いえ、というべきか、何か尊いものの前で心を澄まして、ただ気持ちを静かに落ち着けること――それ自体が、何より深い行いです。

 

お参りとは、実にそのようなものではないでしょうか? 仕事や雑事に忙殺される我々が、一時でも俗世のしがらみから解き放たれ、静かな境地に至ること。本当にそのような一瞬が訪れるなら、礼式などは(どうでもいいとは言いませんが)些細なこととも思われます。

かたちにとらわれず、ひとまずは心を澄まして、お地蔵さんに向かい合ってみましょう。


御線香を立てる、お供え物をするなど、様々なお参りの仕方


全国各地にあるお地蔵さんですが、そのお参りの方法はそれぞれです。「地蔵菩薩はこんな風にお参りしなくてはならない」といった決まりは、どうやらないようです。

仏教で大事なのは「心」で、祈りは心の所作とも言われます。手を合わせることすら、あくまで形式的な作法でしかありません。

 

とはいっても、心だけで静かに祈るというのもなかなか難しいものです。そこで、我々はお線香を立てたり、お供え物をしたり、一般的にそのような方法でお参りをするわけですね。

地域によって風習もあるので、それ以外のお参りの作法も、もちろんあるでしょう。

 

<もっとも一般的なお参りの作法とは>

辻地蔵を祀る地蔵盆などでは、その土地ごとにだいたいの決まりがあったりして、お供えする物も決まっています。その時期になると、近所のスーパーで売られたりもしますね。

しかし、たとえば近所に安置されているひっそりとしたお地蔵さんには、あなたなりのお参りをすればいいでしょう。ごく一般的な方法とされるのは、お線香を立てる、というものではないでしょうか。

お地蔵さんに立てるお線香は、1本か3本が良いと言われています。といって、3本の方が1本より良いとか、そういう意味でもないようです。要するにこのへんは、心、ですね。

それから、お饅頭をお供えするというのも、よくあるお参りの仕方ではないでしょうか。

 

誤解されている方が多いようですが、お地蔵さんのイメージとして世間一般にある「赤い前掛け」は、お礼参りのときにお供えするものです。

すなわち、そのお地蔵さんに対して感謝の意を伝えたいときのお供え物なので、いきなり赤い前掛けをかけてお参りするようなことがあると、お地蔵さんの方でも、あるいは、「あれ?」と思うかもしれません。もちろん、まさかそれでバチが当たるとか、そのようなこともないでしょうが。

お線香を1本、あるいは3本立てて、お饅頭をお供えする――近所のお地蔵さんにお参りするときには、ありふれたことではありますが、その作法を守れば、間違いありません。


お地蔵さんへの正しい「お供え物」


ちょっと心に余裕があるときには――あるいは、心に余裕がないときこそ――お地蔵さんにお供え物をしましょう。

しかし、現在、だいたいの人にとってそのような形式ばったことというのは、あまり身近な習慣ではないはずです。

「何を供えればいいかわからない」という人も少なくはないでしょう。あくまで、まあ、気持ちの問題でもあるのですが――。

 

<お地蔵さんへの良いお供え物とは>

一般的に、お地蔵さんには次のようなものを供えると良いと言われているようです。

◎前掛け
多くの人々がイメージする「お地蔵さん」とは、赤い前掛けをしている姿かもしれませんね。その前掛けもまた、良いお供え物の1つと言えるでしょう。ただこれは一般的に「お礼参り」という意味で供えられるものなので、いきなりお供えするのは少しヘンかも…?

◎お線香
お地蔵さんにお線香を供えるときには、1本か3本が良いとされています。

◎お神酒
器に入れてお神酒を供えるのも、一般的なお参り作法です。量は1合が適量だとか。

◎おまんじゅう
何となくお供え物の定番という感じがしますね。おまんじゅうを供えるのも、良いお参りの仕方です。なんというか、物理的なお供え物なので、供える方にも、「きちんとお参りした」という実感が生まれます。ただ、そんな邪心を持つのも微妙なことかもしれません。

その他、花や果物を供えるというのも、広く一般的なお供えの作法と言えるでしょう。ただし、地蔵盆などでお供えをするときには、その地域ごとに風習が異なったりします。

地元のスーパーなどはそのへんも分かっていて、ローカルな文化に即したお供え物を販売しているので、それをお供えするのもいいでしょう。

 

もっとも、お線香の1本もなく、ただ手を合わせるだけでも、それは良いお参りです。仏教で何より大事とされるのは「心」で、どんな教えにも、心がつきまといます。路傍のお地蔵さんを見つけたら立ち止まって手を合わせる――それだけでも、充分なのでしょう。