その地で亡くなった方の「成仏」を祈るというお参りも



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地蔵信仰が伝わったのは、平安時代のことです。そのときの庶民の暮らしは、現代の我々のような市民生活よりもずっと苦しいもので、生きる上での本質的な餓えなどもありました。

そこで彼らは、「せめてあの世では…」という思いを込めて、極楽浄土への祈りを込めて、お地蔵さんに向かい合ったようです。

 

すなわち、お地蔵さんには衆生救済のご利益(というべきか、なんというべきか…)があると信じられていたわけですね。

しかし、それだけではありません。時代の流れの中でお地蔵さんが各所に安置される意味も広いものとなり、たとえば、その場所で亡くなった人の成仏を祈って作られるという場合もあるようです。

 

<手を合わせて無辜の霊の成仏を祈る――>

私たちが普段、日々の生活の中で何気なく通りすぎているお地蔵さんは、あるいは、誰かの魂を鎮める意味で立てられたものかもしれません。

実際、事故が多発する山道の急カーブなどには、優しい顔をしたお地蔵さんの姿が多く見られたりします。

小さな村の路傍に忽然と現れるお地蔵さんは、もしかすると、かつてその近くでなくなった子どもや水子の不憫を思い、村人が作ったものでもあるでしょう――。

 

私たちは神社やお寺なんかに行くと、つい、「受験に合格しますように」とか、まあそれくらいならいいですが「大金持ちになれますように」とか「モテますように」とか、およそ神仏に願うべきではない、それ自体を先に捨て去るべきではないかというような煩悩を祈りにすり替えたりします。

実際、無心で尊い存在の前に祈りを捧げる人の数は、どれほどの少数でしょうか。

 

もしあなたがかくのごとき煩悩を持って、死者の弔いのために安置されたお地蔵さんに接していたとしたら、なんともバチ当たりです。

それでなくても、仏教というのは戸惑い苦しむ心を清めて、最終的には「無」へと至らしめようというような目的があります。

俗っぽい願い事は夜空の流れ星にでも託すとして、路傍のお地蔵さんには、あるいは鎮魂のために作られた石仏かもと考え、静かな気持ちで向かい合ってみるべきではないでしょうか。


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